伊勢迄歩講ロゴ TOPページ
メ ニ ュ ー
掲 示 板

<前回
第1回 昭和46年(1971) 菅 笠 講(すげがさこう)
次回>


概 要
参加者数 17名 完歩者数 16名
男子 13名
女子  4名
最 年 少 19歳
最 年 長 37歳
係  員 杉田、秋山 2名

ユースホステル新聞記事
◎12月28日(火)

 午前8時半、歩き通すのだという意気込みと、歩き通せるだろうかという不安を、胸に秘めているだろう参加者が一人、また一人と集まってくる。ここ環状線玉造駅には通勤者があわただしくいきかっている。
 手渡された深江の菅笠をかぶる手も、高鳴る胸に震えがちのようだ。
 午前9時、TV、ラジオ、新聞などの物々しい報道陣の中を、女性を先頭にいよいよ出発。
 昔の暗越奈良街道は、大阪市内とは思えないほど静かで、複雑に曲がりくねった道だった。
 昼ごろに枚岡公園で昼食をとり、気を引き締めて今日の最大の難所である暗峠越えの道を、ゆっくりと登っていく。
 時々振り返って見る大阪の空は、スモッグも見当たらず、我々の前途を祝福するかのように、美しく澄んでいた。
 昔の面影を残す暗峠の石畳の道に出て、苦しかった登りも終る。
 下りにかかったところで、仲間の一人が畑に転落するというハプニングに一同大笑い。
 しかし目の前には奈良盆地は広がっておらず、まだもう一つ峠を越えなけれぱならないことを知ってガッカリ。
 奈良市街が近づいて来た出屋敷あたりで、みんなの足どりが鈍くなってきた。すぐ横を車が頻繁に通るので、必要以上に神経を使い、排気ガスとホコリをまともに沿びることが、原因の一つだろう。
 あたりがもう薄暗くなったころ、予定どおりに国鉄奈良駅に到着した。宿舎の奈良ユース・ホステルに着いたのは、午後6時だった。
 ミーティングの時に、菅井ペアレントから私達の計画の紹介があり、同宿したホステラーから激励の拍手を受け、一同決意を新たにした。        (歩行距離約30km 岩橋正行)


◎12月29日(水)

 ペアレントに送られホステルを出発、国鉄奈良駅に着いたのは8時半だった。
 天気は上々、朝の冷気が気持をグッと引き締める。
 猿沢の池の傍を通り、奈良上街道を南下する。
 道沿いの家々の軒の低いこと、格子の木組み等に建て物の時代を感じさせられる。
 お寺やお宮の境内で休んで、年末の買い物の人波でにぎわう天理着。駅前広場で休む。
 村のお宮で昼食にしたが、みんなの食欲にすぐに弁当ガラだけになった。
 線路を越え、三輪山のふもとをぐるっと回る。金屋には、山の辺の道の道標があった。
 あとは国道165号線を車におびえながら歩いたり、旧道を歩いたりして、長谷寺近くで休憩。
 近くの家から人が出てきて「テレビで見たで、がんばって歩きや」と、いってくれたときはうれしかった。
 西峠近くで休んでいた時、すぐ近くの家からおじいさんが出て来て「伊勢まいりやろ、泊るとこあるのか。五、六人やったらうちで泊めたるで」といってくれた。
 そして自分達の若いころの参宮のようすを、楽しくなつかしそうに話してくれた。
 坂を下り夕闇の中、常夜灯や道しるべ、昔の旅館の建て物等の説明を聞き、近鉄榛原(はいばら)駅前の今日の宿舎の旅館に着いたのは、5時半だった。  (歩行距離約32km 久保豊子)

◎12月30日(木)

 さて、地球が回って30日の朝 今日は国道沿いに三重県の奥津(おきつ)まで約45kmのコースだ。
 旅も3日目になり、そろそろ疲れもたまってきた頃。天候も昨日とはうって変って、いまにも降りだしそうな空模様。
 つららや霜柱かキラキラする旧街道を、右側一列になって進む。
 12時過ぎ山粕の町中、無住のお寺で弁当を開く。
 10時半頃から降ったり止んだりしていた雨も、3時頃土屋原のあたりでしのつきはじめたので、全員雨具を着用。
 神末(こうずえ)へ出る峠の手前の橋は工事中で、石づたいに渡る等苦労させられた。
 しとしとと降る雨の午後、空は重苦しくのしかかり、気分もしめりがち。神末では民家の軒下に雨を避けて休憩。昔のままの家並みを抜けて、敷津に着いた時はすっかり暗くなっていた。
 ここからは杉林の中の道を下るのだか、たちこめる濃い霧の中、整然と植林された杉の木立ちの立ち並ぶのは、少し不気味だった。
 降り続く雨で沈みかちのムードを、歌で励まし合いなからも6時10分、やっと国鉄名松線奥津駅前の旅館に着いた。
 めれたズボンや下着を着替えて、7時には待望の夕食。その食欲の旺盛なこと・・・・・。
                       (歩行距離約45km 玉木実)

12月31日(金)

 午前7時45分、旅館を出発。昨夜あれほど降っていた雨も止み、すがすがしい気分。
 すぐに山道にかかる。植林された杉林の中、ひと汗かいて静かな飼坂峠へ。
 下った所が上多気の宿、橋のたもとには自然石の立派な道標があった。川沿いに歩く。水は澄み、魚の姿も見られる。空は西から晴れてきた。いいぞ!
 11時40分、上仁柿のお寺の境内で昼食。
 痛くなりはじめた足が舗装道路を恨んでいる。横野、茅原、津留と歩くのにはつらい、見通しのきく舗装道路ばかりだった。
 しかし石碑や家々のありさまが、ひとときでも疲れを忘れさせてくれた。
 夕闇せまる相可(おうか)へ着いたのは5時15分。
 夕食をすませて外へ出ると、日はすっかり暮れ、代りに十三夜の月が大きく、明るく行手を照らしていた。6時5分出発、最後の追い込みにはいる。
 ほぼ国鉄参宮線沿いに歩くが、地道なので非常にありがたい。
 一人が足を痛めたので二人で担ぐ。疲れをごまかすため、歌を歌ったり、冗談をいって頑張る。
 10時15分、やっと度会橋まで来た。橋の少し事前で、足を痛めていた人がとうとう列を離れ、車に乗った。
 彼も残念だろうが私達も残念である。が仕方がない。私達も大分足を痛めている。内宮まではもう少し(約9km)だ。
 11時7分、伊勢市駅に着いた。人々の話し声が聞こえる。「大阪から歩いてきた人達よ」その声が私には励ましの声に聞えた。
 小休止の後、外宮の前を通り、ひっそりとした古い家並みを抜ける。途中、伊勢のホステラーグループが追い越していった。
 参拝人で雑踏する土産物屋の前を通り、やっと宇治橋に着いた。
 ヨタヨタと・・・・・・。時まさに昭和47年1月1日、午前零時30分だった。
 参拝をすませ、一同うちそろい乾杯。かくして一件落着!
 やったぜ170km、万歳。
 無事着いたことで、歩く元気が一度になくなり、疲れが、そして痛さが一度に出た。
 ああ、しんどかった。            (歩行距離約63km 横田幸男)

 終ってみて参加者の声を聞くと、歩くことに自信がついたというのか圧倒的に多く、青春時代の良い思い出になったという声や、今後はホステリングにも、歩くことをどんどん取れ入れていく、というような意見があり、主催者側の意図するところは、ほぼくみとってもらえた。

(ユースホステルしんぶん 昭和47年2月11日号)


TOP